企画展・特別展

特別展「秀吉と三人の秀勝」

天正元年(1573)、戦国大名・浅井長政(1545-73)が居城の小谷城にて織田信長軍の猛攻撃を受け自害し、湖北を支配した戦国大名浅井3代の歴史は幕を閉じました。小谷落城に際し、とくに功績のあった信長軍の武将が羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉、1537-98)です。その後、織田信長(1534-82)から湖北三郡(坂田・浅井・伊香)を与えられた秀吉は、当初小谷城を居城としますが、翌年の天正2年(1574)頃に当時今浜と呼ばれていた琵琶湖湖畔の地に城と城下町の建造を始めます。天正3年(1575)頃に城は完成したとみられ、秀吉は今浜の地を長浜に改めました。

その後、昭和時代に入り長浜城が再び築かれることとなりました。この再興は、長浜市民の熱意と寄付金によるものであり、昭和58年(1983)に秀吉の城主時代の天守を想像し、歴史博物館として長浜城が蘇りました。そして、令和5年(2023)は、長浜城開館40周年、長浜城築城450年の年を迎えます。これを記念して、長浜城歴史博物館と長浜市曳山博物館の2館にて、秀吉に関する展覧会を開催します。

企画展情報

開催期間:
令和5年(2023)7月22日(土)~9月18日(月・祝)【59日間】[前期展示 7月22日~8月20日、後期展示8月21日~9月18日]
会場:
長浜城歴史博物館、長浜市曳山博物館

 

第1会場 長浜城歴史博物館

秀吉の長浜城主時代は、天正10年(1582)信長が本能寺の変にて没するまで続き、秀吉が京都・山崎に移ったのち、柴田勝豊(?-1583)、山内一豊(1546-1605)が長浜城主を務めました。一豊が遠江国掛川に移ると長浜城は城主不在となり、江戸時代に入り徳川家康(1542-1616)の家臣であった内藤信成(1545-1612)が再び長浜城主となります。しかし、内藤家が開いた長浜藩は慶長20年(1615)に内藤家の移封とともに終わり、長浜城は廃城となりました。本展では様々な資料を通じ初代・長浜城主秀吉とその後の歴代城主の変遷を辿ります。

 

展覧会名:長浜城歴史博物館開館40周年・長浜築城・開町450年記念

特別展「長浜城主・秀吉と歴代城主の変遷」

会  場:長浜城歴史博物館2階展示室

関連事業:【展示説明会】

     令和5年7月29日(土)13:30~ 長浜城歴史博物館2階展示室

 

 

第2会場 長浜市曳山博物館

秀吉の養子となった羽柴秀勝は三人存在しました。1人目の秀勝は、秀吉の実子で早世した人物とされていますが、その実在は確認されていません。しかし長浜曳山祭は、この秀勝の誕生にはじまるといわれ、長浜の町にとって秀吉の存在とともに大きな意味を持つシンボルだったともいえます。こうした視点から秀吉の実子とされる秀勝を再認識してみます。

次に織田信長の四男で、早世した秀勝のあとに秀吉の養子となった於次秀勝があらわれます。織田信雄・信孝とは兄弟にあたる於次秀勝は、秀吉が不在中の長浜城にあってその代理として手腕を振るい、秀吉の知行地経営を任されていました。また、本能寺の変後に秀吉と共に京都大徳寺にて信長の葬儀を主催しています。長浜在城時代の於次秀勝の政治的立場から、彼の再評価を試みたいと思います。

最後に秀吉の姉日秀の次男、小吉秀勝を取り上げます。小吉秀勝は、天正13年(1585)に18歳で没した於次秀勝のあとに秀吉の養子となった人物です。九州攻めの功で丹波亀山城に封じられるものの、これを不服としたために一時期秀吉に勘当されていたようです。その後小田原攻めに従軍して、甲斐国甲府へ、のち岐阜へと移り秀吉の信頼も取り戻していたようです。文禄の役に朝鮮へ渡りますが、その地において24歳で病死してしまいます。

総論として秀吉が「秀勝」という名前にこだわった理由をさぐり、そこにこそ秀勝が長浜曳山祭のシンボルとなった事情があるのではないかという考察を試みたいと思います。

 

展覧会名:長浜城歴史博物館開館40周年・長浜築城・開町450年記念

第2会場「秀吉と三人の秀勝たち」

会  場:長浜市曳山博物館1階・2階展示室

関連事業:【記念フォーラム「羽柴秀勝の再評価」】

     令和5年9月2日(土)13:30~15:00 曳山博物館(伝承スタジオ)

     講師 尾下成敏(京都橘大学 教授) 太田浩司(曳山博物館館長)

     【展示説明会】

      7月22日(土)、8月26日(土)いずれも13時30分~

 

 

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