- 振付
- 岩井 小紫
- 太夫
- 竹本 甚太夫(三役修業塾)
- 三味線
- 豊澤 賀祝(三役修業塾)
酔いしれるほどの名演技
子ども歌舞伎について
子ども歌舞伎とは
長浜曳山祭の一番の見所は子ども狂言(歌舞伎)です。
長浜では歌舞伎のことを「狂言」または「芸」と呼び、曳山を持つ町(山組)の5歳から12歳くらいまでの男子によって演じられます。通常の歌舞伎と同じように、子ども歌舞伎にも立役と女方があり、立役を演じる男子の迫力や勇ましい姿、女方を演じる男子の艶やかさや可憐な姿は多くの人々を魅了します。
演目は曳山の正面にある四畳半の舞台と子ども役者用にアレンジされます。また、毎年新しい演目が演じられ、長浜独自の外題(題名)がつけられます。毎年入れ替わりで4基の曳山が出番山として登場し、それぞれの曳山で外題が演じられます。
上演時間は約40分で、本番の前に行われる線香番と呼ばれる公開稽古で時間が計られます。子どもたちの稽古は振付師の指導により、3月下旬(春休み)から4月の祭り本日まで約3週間行われ、まず読み習いがあり、それに続いて立ち稽古を行い、最終的に三味線・太夫と合わせて本番を迎えます。各山組で厳しい稽古を積んだ子どもたちの立ち居振る舞いはそれぞれ個性があり、大人顔負けの名演技を披露します。
長浜の子ども狂言(歌舞伎)は、寛保2年(1742)の台本や、明和6年(1769)以降の外題記録などの資料から、1700年代から行われていたことがわかっています。長浜の町衆は祭礼に出る曳山と当時流行っていた歌舞伎をつないでいち早く取り入れ、街中を巡行させて移動芝居の場に仕立て、今日あるような祭礼をつくりあげました。
令和4年度 長浜曳山祭 外題および三役
平家女護島 俊寛 鬼界ヶ島の場
鳳凰山(祝町組)
あらすじ
平家全盛の時代、鹿ヶ谷での平清盛打倒の密談が発覚して俊寛(しゅんかん)は丹波少将成経(たんばのしょうしょうなりつね)、平判官康頼(へいはんがんやすより)と共に無人の鬼界ヶ島に流される。流されて三年目、俊寛の庵で丹波少将成経と海女千鳥(あまちどり)の婚礼を皆でささやかに祝っているところへ、都からご赦免の船が着く。はじめのうちは俊寛には赦免状がなく嘆き悲しむが、平重盛らの慈悲で俊寛にも乗船が許される。
しかし千鳥はいくら頼んでも許されない。そのうち妻の東屋が既に殺されている事を聞かされた俊寛は、上使の一人で千鳥の乗船をはばむ瀬尾太郎兼康(せおのたろうかねやす)を争いの果てに殺し、自分は島に残る決意を固める。千鳥は乗船を認められ、俊寛を一人残して船は出ていく。
いったんは一人この島に残る決意をした俊寛だったがやはり思いきれず、突然気が狂ったように船を追って海へと入っていく。だが波に返され大きな岩によじ登り、もはや声も届かないほど遠くなった船を呆然と見送るのだった。
GOEMON 石川五右衛門
壽山(大手町組)
- 振付
- 水口 一夫
- 太夫
- 竹本 朋太夫
- 三味線
- 豊澤 勝二郎
あらすじ
時は桃山時代、天王山で明智光秀(あけちみつひで)を破った豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、天下を統一した。その頃、イスパニアから日本にキリスト教を布教のため訪れていた、イエズス会の通訳カルデロンは、明智光秀の家来四王天但馬守の娘石田の局と恋仲となって、一子友市(ともいち)をもうけた。
幸せに暮らしていた一家に突然の不幸が襲った。今まで、信長が許可していた、我が国でのキリスト教の布教、イスパニアやオランダ、ポルトガルとの交易を、豊臣秀吉は、突如禁止令を出した。全ての異国人を国外退去としたのである。
カルデロンも例外ではなかった。石田の局もその美貌が仇となった。秀吉は、側女として、聚楽第に来ることを命じた。石田の局は、仇の秀吉に、一太刀報わんと、死を決意して聚楽第に向かった。
両親に別れた友市は、孤児となってしまった。それから、10数年、ここは、春爛漫、京都南禅寺の山門である。天下の大泥棒石川五右衛門(いしかわごえもん)は、その山門を隠れ家としていた。実は、五右衛門は、友市の成人した姿であった。都の春景色を眺めているところへ、五右衛門を捕らえに、秀吉の命を受けた石田三成(いしだみつなり)が忍んで来る。五右衛門の運命は、いかに?
男の花道
高砂山(宮町組)
- 振付
- 市川 団四郎
- 太夫
- 竹本 乾太夫
- 三味線
- 豊澤 湊祝(三役修業塾)
あらすじ
加賀屋歌右衛門(かがやうたえもん)は大坂で大人気を博す女形役者であるが、実はひそかに失明の危機を抱え、その恐怖を懸命に隠しながら舞台に上がる日々であった。特に眼科医として目の病を学んでいた蘭学医士生玄碩(げんせき)は、その症状を客席から見事に見破り、彼の大手術によって歌右衛門は九死に一生を得る。互いの意気で共に難局を乗り越えた二人は、信じ合い、競い合って生きていくことを誓い、歌右衛門はいつか玄碩の大恩に報いたいと決心する。
視力を回復した歌右衛門の舞台は念願の初の江戸下りでも一層の輝きを見せ、連日客が詰めかけ大評判に。一方の玄碩は同じく江戸へ出てきたものの、医者としての信念を重んじ、貧しい人々に無償で治療を行うため経済的には困窮、歌右衛門のような華やかさとは無縁の長屋暮らしを送っていた。
そんな或る日、玄碩は予期せぬ命懸けの窮地に陥る。もし刻限までに歌右衛門が玄碩のためにその場へ駆けつけねば、玄碩は切腹させられるというのだ!今こそ歌右衛門に玄碩へ恩返しの機会がやってくるが、一刻を争うその時とは、まさに満員御礼の舞台上演の最中。守るべきは役者の面目か?友情か?はたして二人の運命は・・・?
伽羅先代萩 足利家奥御殿の場
猩々丸(舟町組)
- 振付
- 千川 貴楽
- 太夫
- 竹本 龍豊(三役修業塾)
- 三味線
- 豊澤 龍三(三役修業塾)
あらすじ
奥州の領主は吉原の傾城高尾に入れあげ、領国を顧みないため隠居を命じられ、幼君の鶴千代(つるちよ)が跡を継いだ。しかし、お家乗っ取りを企む一味があるところから、乳母の政岡(まさおか)は鶴千代の食事の世話も自分の手で行っていた。
空腹を訴える鶴千代と実の子の千松(せんまつ)をなだめていたが、そこへ栄御前(さかえごぜん)が菓子折りをもって現れる。鶴千代が菓子を食べようとしていたとき、端から千松が菓子をとって食べてしまう。それには毒が仕込まれていたため千松は苦しみもがく、それを見た八汐(やしお)が露見を恐れ千松を刺し殺す。
わが子が死んでも涙を見せない政岡。栄御前は、政岡が子どもを取り替えたと思い、自分たちの企みを打ち明けて帰る。
しかし千松は政岡の実の子だった。千松は母の教えを守り主君のために命を投げ出したのだ。
ひとりになった政岡は千松の遺骸を抱きしめ悲嘆にくれる。